河内木綿について

江戸時代から明治時代のはじめにかけ、河内地方(大阪府東部)で栽培された綿から糸を紡いで手織りされた木綿織物のことで、糸が太く、地質が厚いのが特徴です。

日本で綿が広く栽培されはじめたのは15世紀末の戦国時代といわれ、それまでの木綿は朝鮮半島から輸入された高級品でしたが、丈夫で保温性に優れた新しい生地・衣料として次第に日本国内に広まっていきました。綿が栽培されはじめたのがいつ頃かはっきりとはわかりませんが、河内地方が発祥の地と言われています。

大和川の付け替え

17世紀になり、江戸初期には河内地方での綿栽培や木綿生産が盛んになると各地に問屋組織が生まれました。そして商品化されるにつれて、白木綿だけでなく、縞模様の物や様々な型染なども開発され、発展していきました。

18世紀に入り、宝永元年(1704年)の大和川付け替えにより、綿作りがますます盛んになり、木綿織りはさらに発展しました。八尾周辺の村々に木綿を扱う商人たちが増え、仕入れや販売の競争がはげしくなり、最盛期には、河内国の集荷高は2~300万反にもなったといわれています。

明治時代から昭和にかけて

明治時代に入り、外国の安い木綿糸の輸入や洋式紡績業の移植によって河内木綿が衰え始めます。河内地方では、河内木綿の婚礼蒲団など儀式的な要素として大正期・昭和初期ごろまでは残っていたようですが、その習慣も次第に少なくなり、江戸時代以来の伝統を受け継いだ手織り木綿産業としての河内木綿は、戦前までには終わりを告げました。

現在は、明治時代に入ってきた洋式紡績機械により発展した河内木綿が、大正時代に全国に普及します。その機械紡績木綿産業としての河内木綿の誕生したのが、太田が中心と言われております。

現在

現在の河内木綿は、綿糸20番以下の太糸で製織した小幅木綿の生地のことを指し、『太紡(ふどぼう)』として、広く知られている。その使用用途として、のぼり・のれん・袢天などに重宝されています。私共、高橋商事は、その機械紡績糸による伝統を受け継ぎ、河内木綿『太紡』を作り続けています。

河内木綿の特徴

①文様や柄は多種多様。
特に縞柄は「河内縞」呼ばれ、河内木綿の特徴の一つで、様々な柄があります。また型染による紺地に「菊花唐草文」などの日本古来の文様も特徴。婚礼の際の蒲団地には鳳凰や鶴亀などの吉祥的な絵柄が豪快に描いています

②糸が太く、生地質が厚いことから、洗うごとに布地は滑らかになり、丈夫で長持ちです。そのため、古くから幟やのれん、袢天・浴衣、布団地、足袋表、酒袋などに重宝されていた。

以前の研究では、江戸時代初期に農家の自家用として作られていた木綿織物が、次第に河内木綿として商品化され、その名が全国的に知られるようになったと言われていました。しかし、近年の研究では、木綿は高級品であったため農家の自家用として発展したとは考えらず、注文による生産(オーダーメイド)で木綿が織られてたと考えられています。

江戸時代、庶民の布地として美よりも用に重きが置かれた河内木綿ですが、今日では改めてその美が見直されています。